つくる行為が資産なのだ(アメリカの場合)〜日本映画産業論その3〜

アメリカと日本では映画産業の中での作り手の地位や立場がちがうらしい。そうとう、根本的にちがうみたい。それは、映画とテレビの歴史のちがいによるみたいなんだね。

はい、ここで話が早い別のページを読んでください。あの池田信夫先生が少し前に書かれた論文『ネットはテレビを飲み込むか』を読んでみましょう。

・・・読んだ?・・・

・・・読んだね。・・・

いまのはぜひ全文を読んでね。それから続いて、こっちの論文も読みましょう。『テレビに明日はあるか』を、こっちはかなり長いので流し読みでけっこう。

“ハリウッド対テレビ”と、その次の”日本の映画産業と放送産業”ぐらいまででもいいから読んでね。

・・・読んだね?・・・

これでだいたいわかったはず。

日本とアメリカでは、映画とテレビの発達史がちがう。

つまり、アメリカでは映画界がテレビを取り込もうとたくらんだ。フィンシン法とプライムタイムルールなどどいう、強引な法律までつくって、映画界がテレビ局に「いいようにはさせないぞ」と闘った。

いやその前に、アメリカでは製作配給と興行が分離させられていた。これも大きい。

アメリカがすげえなあと思うのは、どこかが利権化しようとすると、硬直性を排除しようとする動きが出てきて、しかも認められる。常に変化を強いるような社会性国民性があるんだ。まあ、それはここでは置いておこう。

とにかく、アメリカでは配給と興行が分離していた上に、テレビというプラットフォームを映画界がとりこんだ。

つまりね、アメリカの場合、作り手がビジネスモデルの中心だという前提があるわけ。それにそれは正しいんだ。

ハリウッドの映画会社を、”スタジオ”と呼ぶでしょ。そこに彼らのスタンスが表れている。撮影をする場所、が核なわけ。つまり、つくる現場が中心だと。

日本の映画界は60年代から70年代にかけてテレビが力を持ちはじめた時、ただひたすら排除しようとした。テレビの人たちもきっと、映画界を頼りたかったにちがいないのに、映画界がそれを拒んだ。テレビ界は仕方なく、自分たちでスターを育て、自分たちでコンテンツづくりのノウハウを貯めていった。それがその後の”差”になった。

アメリカのドラマは昔からフィルムで撮影されたものが多い。日本のドラマは時代劇だけがフィルムだった。水戸黄門もつい数年前までフィルム撮影だった。日本の場合はテレビ局が自分でドラマをつくらなきゃならなかったから、自分たちのビデオカメラで撮影していた。

それからもうひとつ、アメリカは国土が広すぎてネットワーク化が不完全だったり、早くからケーブルテレビが発達して多チャンネル文化ができていた。だから番組流通市場ができていた。

そうしたことが重なり合って、アメリカでは放送による広告費で稼げる以上のお金を番組制作にかけ、そのリクープ二次使用の市場でなんとかなった。

そして番組の主体者はテレビ局ではなく、プロデューサーだった。そうなっていった。

日本の場合は、映画界に拒まれたし二次使用の市場がぜんぜん育たなかったから、番組はテレビ局のものになっていった。

そこがちがうの。決定的にちがうの。

そしてその影響は計り知れない。日本のコンテンツ産業のすべてがテレビ局を中心に回るようになったんだから。

というあたりで、また次回ね。なんとなーく、わかってきたでしょ?・・・

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コメント

  1. 僕は一時期、ハリウッド周辺で仕事をしてた時期もあるんですが、アメリカと日本の一番の違いはアメリカは独占禁止法が強力に働き、日本では働かない、公共取引委員会が映画界にはタッチしないことだと思います。ごく最近になって原口総務相がこの問題にタッチしましたが、アメリカより80年以上も遅れています。http://journal.mycom.co.jp/column/media/039/index.htmlこの80年の差がアメリカと日本の違いだと思います。

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