私たちは昭和が残した課題を、何一つ解決できていない
この連休中に元号が変わった。平成が終わり令和という新しい時代に入ったことは素直によろこびたいと思う。だが少々、テレビをはじめとするメディアははしゃぎすぎていたようにも感じた。昭和が終わり平成に変わる時の重苦しさ、喪に服してないと非国民扱いされかねない空気よりずっといいが、ここまで浮かれるものかという気もする。それは特に私が昭和世代だからかもしれない。何もできないまま平成が終わってしまったことに、焦りのようなものが胸の中で疼くせいだ。
私は1987年に社会人になった。2年後に平成になり、その後結婚し息子と娘が生まれ、二人とも成人になった。つまり平成はほとんど私が大人として過ごした期間だった。大人としての主要期間が丸々平成だったのだ。だから平成という時代に責任を感じる。いや、令和という時代を迎えて平成が終わる時、その平成に対する自責の念が湧いてきたのだ。ああ、何もできなかった。何も変わらないまま平成が終わってしまう責任の一端を、間違いなく私は負っている。昭和世代はみんなそう言えると思う。
ここで言う昭和世代とは、平成の大半を大人として過ごした人びとだ。私より上の人はみんなそうだし、2000年あたりまでに社会人になった人はみんな昭和世代と規定できるだろう。年齢でいうと今、40歳以上の人たちだ。そこに入る人は、あなたも私も、平成に責任がある。
平成への責任とは何か。私が考えるのは、昭和の課題を解決できなかったことだ。30年間も時間があったのに、前の時代の良くないところを良くできなかった。ほとんど手付かずでそのままになっている。そのことを、平成が終わって今さら悔いているのだ。なんとも情けないことだと思う。
日本の会社、という諸悪の根源
昭和の良くなかったところとは何か、それについては5年ほど前に書いたブログ「日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない」を読んでもらえるとわかりやすい。
このビジュアルを上の画像と対比してもらえばわかる通り、この時の続きを今書いている。シリーズメッセージ、のようなことだ。
この時書いたのは、日本が抱える問題はほとんど昭和に源があるということだ。もっともポイントとなるのが、戦時体制の話だ。
日本の社会構造を形成する制度のほとんどは、戦時中にできたものだった。そのルーツをたどると、当時できたばかりのソビエト連邦の社会主義に行き着く。日本の戦後の制度は、ソ連の社会主義をベースにした独特の不思議な制度で戦争遂行のためにできたものだ。それがGHQが来ても手付かずのまま残った。日本という国は戦後に民主的に生まれ変わったように見えて、本質は戦時体制のまま続いて、高度成長の時代に経済的勝利をもたらした。大まかにそんなことが書かれている。
それは経済学者・野口悠紀雄氏の「1940年体制」に書かれていることだ。私は1995年にこの本に巡り合ってようやく、高校生の頃からこの国に感じていた澱みの原因がわかった。
戦時体制の根幹は、そして私が感じていた澱みを生み出しているのは、日本の会社制度に集約されている。資本主義を体現しているはずの株式会社制度は、日本ではまるで社会主義のシステムのように機能してきたのだ。終身雇用と会社別組合と、銀行による間接金融。この3つが組み合わさって日本独特の、資本主義のようで社会主義的な株式会社の制度が成立している。
ここではその問題点をわかりやすく終身雇用に絞って論じていきたい。終身雇用を事実上絶対ルールにしてしまった日本の会社という独特の制度、組織のあり方こそが、私が言う昭和が残した課題だ。
国と個人の間に会社が入り、個人の面倒を見る不思議
経営者は従業員の雇用に責任を持つ。これは当然と言えば当然かもしれない。だが日本では、雇用に責任を持ち続けねばならない。一度採用したら、定年まで面倒を見るのが義務であり、その責任を放棄すると非人間扱いされる。それに司法の判例でも、簡単に従業員を辞めさせることはできない。これは従業員に対して優しいようで、同時に主体性を奪っている。
私はコピーライターとして31歳の時にフリーランスになった。退社してよくわかったのだが、日本の会社員は税金と社会保険の面倒を全て会社に任せきっているのだ。源泉徴収とは世界的に行われている制度ではない。給料から会社があらかじめ税金を払うという大きなお世話が、日本では会社の義務だ。この源泉徴収制度も、1940年体制、戦時中にできた制度の一つだ。国家が税金を徴収しやすくするために会社に徴収させる奇妙な制度だ。ただ源泉徴収制度は日本だけではない。
日本だけの奇妙極まれる制度が、年末調整だ。源泉徴収で大雑把に徴収した税金が、個々人の状況に合わせて払い過ぎた分を返してくれる。その計算もやるのは個人ではなく会社だ。かくて会社員は自分がいくら税金を払っているかも、なぜその金額なのかも知る機会がない。そんな制度で国民主権が成立するのか疑わしくないだろうか。
この年末調整が象徴するように、日本では国と個人の間に会社が入ってくる。会社を通して国は個人を把握し、個人は福利厚生を受ける。この時点でおかしなことだと私は思う。
ただ、受け取りようによっては、会社が個人がなすべき計算を肩代わりしてくれる良い制度とも言える。だが終身雇用のもっと大きな罪は他にある。社会が変化に対応できないのだ。それこそが平成への悔恨であり、この30年で変わるべきだったポイントだ。
終身雇用が、産業の新陳代謝にブレーキをかけている
日本には今、再編が必要な産業がいくつもある。全産業で再編が必要と言ってもいいくらいだと思う。だが誰がどう見ても、内部の人びとも今のままでは行き詰まるとわかっているのに、再編は進まない。再編にはどうしても痛みを伴う必要があるからだ。その痛みを、日本の株式会社は負えないのだ。雇用を守る義務があるせいだ。そして再編が必要な会社の従業員たちも「今のままじゃいけない。うちの業界は変わるべきだ。ただしおれの雇用は守ってくれ」と平気で考えている。そんな従業員たちに責任を感じている社長は、自分が大ナタを振るって社員に恨まれるのは嫌だから、率先して再編に足を踏み出さない。
かくて、このままじゃダメなのがわかっているのに、誰も何も変えられないまま月日が過ぎていく。目端の利く若手社員は少しずつ歯が抜けるように辞めていくが、40代以上は身動きができない。終身雇用が続く限り、今いる会社が続けばいいと乞い願うだけだ。
これこそが昭和が残してしまった課題だ。そして平成で私たちはそれを解決できなかった。ずるずる先延ばしにしただけだ。
終身雇用が生んでしまう正社員と非正規という「身分」
終身雇用がもたらす問題には、もっと個人レベルのこともあり、そちらの方がより大きな問題かもしれない。終身雇用は新卒一括採用とセットだ。だから大学卒業時に「正社員」になれないと、一生なれない。これも日本人の精神性に大きな影響をもたらしていると思う。レールを一度外れてしまうと、もう戻れないのだ。新卒時に景気が悪いとたくさんの人びとが生涯非正規でしか働けない。こんなおかしな社会はないと思う。だからようやく今、就職氷河期の時代に正社員になれなかった人たちのことが問題として浮上している。
そもそも終身雇用だから正社員と非正規社員という不思議な身分のようなものができてしまう。新卒時に入った人は定年まで正社員でいられる。入れなかった人はずーっと非正規社員。封建社会と変わらない身分差別が平気で起こっている。レールさえ外れなければ人生安泰。だからこそ、レールを外れないような生き方になる。またレールから外れた人に猛烈に厳しい態度に出る。互いにチェックし合うような傾向も、終身雇用がもたらしているのではないか。
終身雇用により、家庭生活も縛られるし女性の社会進出の妨げにもなっている。これはまた長くなるので、別の稿で書きたいと思う。
昭和世代は残りの人生で昭和を解決する義務がある
長々と呪詛のような事ばかり書いてしまったが、私が言いたいのはここからだ。昭和の課題を平成で解決できなかったことに、昭和世代の私たちは責任がある。私のプライベートに絡めて言うと、私は私の子どもたちのために、昭和の課題を解決する責任があると思っている。子どもたちは成人したが、それでおしまいではなく、子どもたちのためにできること、なすべきことを私たちはやるべきなのだ。
一つには、各業界の再編を推進するのだ。それぞれの業界のあるべき姿を具体的なものにし、そこに向かって業界が進んでいくサポートをする。もう、自分がいる会社の利益とか、自分自身の雇用とか、そんな小さなことにこだわっている場合ではない。10年後20年後のあるべき像をイメージし、そこに向かってみんなを押していくのだ。
「あるべき像」はすでにわかっているはずだ。ただそこに至るには多くの痛みを伴う。自分自身も痛い思いをするかもしれない。だがちょっとだけズルいことを言うようだが、改革を推し進めた者は、あとでいい目にあうはずだ。敵も作るだろうが、味方の方がずっと多くできて共に動いてくれるものだ。だから恐れることはあまりない。
それに「痛み」と言っても、死ぬようなことではないし、収入が多少減っても意外にやっていけるもの。実は大して痛くもないのだ。何より、自分が痛い思いをすることで、子どもたちの行く末が明るくなると思えば、どうってこともないだろう。
もう一つの問題点、正社員と非正規社員の身分差別や、それに伴う個人のあり方、生き方の方は解決の道筋は難しい。またここで書かなかった家庭生活や女性の社会進出の問題はもっとハードルがありそうだ。ただ、若い世代を見ていると、すでに軽やかに歩いているように見える。若い世代はそもそも、終身雇用などアテにしてないのだと思う。だから自然と解決に向かっているのかもしれない。ただ昭和世代はそれを黙ってぼーっと見ているのではなく、少しでも手助けになるようなことをしてあげたいものだ。それでいいんだ!と力強く促してあげるだけでもずいぶん違うだろう。
私にとっての平成が大人として過ごした時代だったのと同じく、私の子どもたちにとって令和がそうなるのだろう。彼らが心豊かに令和の時代を生きていけるよう、できることをやらねばと思う。
昭和世代が平成にやり残したこと。解決すべきだったことを、これから少しずつこのブログで書いていきたい。私にとりあえずできる、やり方だ。時々気にして読んでもらえればうれしい。
※この記事はアートディレクター・上田豪氏と、5年前にシリーズで続けていた試み。記事を書いて挿し絵的にビジュアルをつくるのではなく、見出しコピーだけを書いたものに上田氏がビジュアルをつけて言葉とともにひとつの表現として完成させたもの。それをもとにあらためて本文を書く、というやり方をしている。ビジュアルを作成してもらうことで、ブログ記事の訴求力と伝播力が強くなる。コトバとビジュアルが組み合わさって起こる化学反応を示している。5年ぶりにまたやってみた。続きもやってみたいと考えている。
コピーライター/メディアコンサルタント
境 治
sakaiosamu62@gmail.com
@sakaiosamu
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ブロゴスから来ました。理由は終身雇用に対するあなたの意見への反論を書き込みたいからです。終身雇用制は、もちろん諸悪の根源などではありません。人類が構築しえた最高の遺構であり、究極の社会論であり、理想形です。残念ながらあなたの言う終身雇用制への苦言はまったく的外れの頓珍漢な皮相浅薄な論理だということを書きたくて来ました。かつて、日米貿易摩擦が表面化したころ、日本の終身雇用制を見たアメリカ人はぶっとんで驚きました。こんな制度をやられたんじゃとてもじゃないが勝ち目がない。潰すべきはまず終身雇用制だと心底感嘆したのです。
それが終身雇用制です。そしてその終身雇用制は、年功序列制と密接にかかわっています。不可分の関係にあるのです。この関係性が理解できないと終身雇用制は理解できません。
もう一度書いておきます。この国の終身雇用制は、人類が作りえた奇跡とも言える社会制度の仕組みです。その意味が解らないから、あるいは、皮相な誤解があるから、終身雇用制を理解できないのです。間違えるのです。
今日はここまでにしておきましょう。
コメントありがとうございます。
終身雇用が永続可能な制度ならばそれはそれでいいのかもしれませんが、実際にはすでに破綻していて、だから大企業は放棄しかけていますよ。こちらの記事などわかりやすい。
「48歳で会社を辞める」時代がやってきた NEC、富士通…大企業で相次ぐ早期退職者募集
https://bunshun.jp/articles/-/11768
読んでみてはいかがでしょうか。
レスありがとうございました。読みました。そのうえで、もう少し書かせてください。
先ず、私の立場ですが、昭和40年代に社会に出て、この国が高度成長期高度をまっしぐらに向かって夢中になり、それが衰退して破綻して今日に至るすべての経過を間違いなく見てきました。社会に出た当初は、労働組合の若手活動家として、やがて労組の執行役員となり、労使構造ををつぶさに見てきました。毎年労使交渉をして、賃上げをして、定期昇給と、ベースアップを当たりまえのように獲得して時代です。労組の役割は、獲得した賃上げをどうあ日分するかが常に大きなテーマでした。年功序列終身雇用がしっかり構築されて機能していた時代です。この時代の労組のもう一つのテーマは、雇用の確保です。それと労働条件の改善も主要―なテーマでした。そのいずれもが実現できた時代です。やがて日本アズN01と言われる頂点の時代に突入します。そして同時に起きたのが日米貿易摩擦でしたね。其れからのこの国の崩落は早かった。あっという間に有頂天から奈落の底に突き落とされた。私も、組合を終えると今度は管理職に登用されて、非組合員です。創業以来一度も赤字を計上したことがないことを誇りにしていた歴史的場門が、次々に赤字に転落していく。リストラの嵐が吹き荒れ、事業場閉鎖、配置転換、合理化が当たり前になりました。もう雇用確保どころではなかった。組合は、いかに有利な解雇条件を作り上げるかに腐心していました。同僚の人事担当者は、解雇した従業員からの逆恨みの嫌がらせで、生きた心地もしない日々を迎えることになりました。何だ、終身雇用じゃないじゃないか。企業は血も涙もないのか。怨嗟の声があふれていましたね。そんなあらしのような日々を過ごして、私も早期退社をして自営業の道を歩き始めました。その過程で全部見てきましたよ。
今日はこの位にしておきましょう。
またコメントありがとうございます。私も高度成長時代には終身雇用制度がうまく機能して、企業別労働組合ともセットになって日本経済をダイナミックに突き動かしたと思います。en mayさんはまさにそういう時代を過ごされたわけですよね。でも、早くもmayさんが在職中に行き詰った。ということは終身雇用制度とは幻想に過ぎなかった、ということではないでしょうか。少なくとも、永続的ではない。だからそれが露見した90年代に是正すべきだったのに逆に引きずった。離れられなかった。それこそが私の言う「昭和世代の責任」だと思っています。en mayさんのおっしゃってることと私が書いたことはさほど違わないと思いますがいかがでしょうか。
次回は「このくらいにしとく」のではなくおっしゃりたいこと全部書いていただけるとうれしいです。
重ねてレスありがとうございます。出し惜しみをしているのではなくて、この問題を一気に全部書いてしまうことは大変困難だと感じっているのそんな表現になっています。
頑張りましょう。それで、あなたのこの発言です。
>でも、早くもmayさんが在職中に行き詰った。ということは終身雇用制度とは幻想に過ぎなかった、ということではないでしょうか。少なくとも、永続的ではない。だからそれが露見した90年代に是正すべきだったのに逆に引きずった。離れられなかった。<
これね、実は問題がすり替えられているというか、主客転倒しているというか、つまり、意図的であるにせよそうでないかにせよ、問題の本質を誤らせてしまっていると考えています。終身雇用が幻想だと考えるのは、実は、一人の人間を一つの企業が生涯にわたって雇用を継続するという契約に基づいていると定義するところから間違いが生まれます。まず終身雇用は、契約ではありません。したがって、ここの一人の被雇用者の権利や企業の義務とかと考えるから間違えます。終身雇用とは、一人の人間が、特段の問題もなく誠実に、職務を遂行するなら生涯にわたって、雇用を継続するという労使共通の、共有する共通の原理です。これをあたかも、権利や義務のようにしてしまったのは、終身雇用制を破綻させようとした外力、主としてアメリカなどの圧力と、終身雇用制を悪用して、いったん就職すれば生涯にわたって青天井で賃金が上がると主張した官公労の主張が終身雇用制と言う制度の仕組みだと国民を誤解させてしまったからです。
終身雇用は、例えば企業の業績が悪化して、解雇や、配置転換や、その他の様々な企業がとるべき労務対策を、本来、否定するものではなかったのです。この点は裁判所なども判例などによって間違えた解釈を与えてしまっていますが、そんなできもしない終身契約を確約するなどと考えるのは全く間違いです。それが、私が、あのリストラのあらしに向かって、終身雇用じゃないじゃないかと怨嗟の声を浴びせられた時の答えです。
理由は、---話が長くなりますがーーー、終身雇用制と年功序列制は、完全にセットになって、国民を、完全に平等な同一労働同一賃金制を具現するために作り出された究極の理想形であるからです。そしてこんな制度が生まれたのは、社会主義のような権力や論理によって作り出されたものではなくて、一つの運命共同体の生存と共存の知恵として、随分と長い歴史をかけて作り出された原理だからです。考えてみてください、一つの村の住民を誰一人脱落させることなく、すべて生存させるために取るべき手段を考えたらどんな方法があるでしょうか。個々の能力にかかわらずです。全員の生存と言う命題の前では、能力という尺度は邪魔になります。全員の生存を担保する唯一の手段として終身雇用、年功序列賃金制は理想形です。しかも実現可能です。能力のあるものが稼ぎ出した収益を、能力のあるものが安定的に維持拡大して、それを生存に必要なだけ分け合えばいいのです。
終身雇用制が成立した時代とは、つまりその理想形が成立していた時代だったのです。
つまりその組織を支えたのは、終身雇用制があったからではなくて、その組織が成立する知恵を出し合って、支えていたからです。それを、企業の社会的責任と考え、そこに帰属する構成員が献身的に、忠実にその務めを果たすことを互いに共有した時代があったのです。
矢張り長すぎるので、今日はここまでにしましょう。
さて、要約するなれば、年功序列、終身雇用制とは、一つの村の住人をすべて生存させるための手段としてこの国が有史以来ずっと持ち続けてきた仕掛けなのだともいえるのです。対して、欧米型の雇用形態は奴隷制そのものです。歴史的に考えても、ローマギリシャ時代、あるいはナイル文明、メソポタミア文明を見ても、戦争で征服した異民族はすべて奴隷にしてきた歴史があります。中国のそれはもっと過酷で、チンギスハンの時代には、征服した部族はすべて殺して、文物はすべて燃やして跡形もなくしてしまうという残虐を常としていたのです。一方わが国の戦国時代と言っても、武士が他藩を侵略して攻撃しても、その農民を奴隷にすることも、殺害することもなく、農民を生かして、課税権を取って地域を支配するという律令政治という高度の統治性を歴史上ずっと続けてきたのです。
奴隷制は、即ち命の使い捨てです。死ぬまで酷使して、死んだら補充すればいいと考えるから、単に利益が上がるものだけが価値がある原理が最優先となります。一方で、農業を基盤としていたわが国のような体制にあっては、農民という専門性を持った階層が存在しなければ社会そのものが成立しなくなってしまところに西欧文明とは全く違う特性があります。
年功序列制が、完成された同一労働同一賃金制の一形態だと以前に書きました。本来同一であるべき賃金を、より生存にかかるコストの少ない若年層から削って、生活費の掛かる中高年層に厚く配分する仕掛けです。したがって、若者は、当然にして、高齢者よりも仕事は余計できて体力もあっても、同じ仕事をしているのに賃金は半分ということが当たり前に起きます。それを受け入れたのは、若年者も、金がかかる中年者に厚くすることに合意と共感を持っていた共同の社会意識があったのです。そして終身雇用制も、その生涯賃金体系の中で、賃金が低くて馬力のある若者だけを雇っていいとこどりする企業が抜け駆けしたら、そりゃあフェアじゃによなと言う社会的合意を社会全体が共有していたからこそ実現できたのです。
もう一つ違ったことを書いておきましょう。
私たちは普通に偏差値という言葉を使います。一つの母集団の中で、平均値に対して自分がどんな位置にいるかを分析する手法ですが、この前提となう基本原理は、人間の能力が正規分布していると言う原理に基づいています。そしてこの原理は、母集団が十分大きくなれば普遍的に成立すると考えられています。昔の中学校では、生徒の成績を5段階評価して、相対評価で評定していました。異論があってその後いろいろ試されていますが、依然として偏差値は大きな意味を持っています。
ここで注目すべきは、相対評価の配分においては、5段階評定の場合、5…7%、4…24%、3…38%、2…24%、1…7%が目安としていることです。思い出してください。中学の同級生の69%の評点が3以下だったのです。これは取りも直さず、国民のすべての、うちの69%が3以下だということを意味します。この事実をどう見るか。それが問題です。
いずれにしても、年功序列終身雇用制で守ろうとしてきたすべての国民の生存を担保する仕組みは、高度に洗練さ荒れた文明の成果としていあるのです。能力のある者だけが生き残れる社会を競争原理として肯定する社会は、実は奴隷制の社会と全く同じものです。人間を使い捨てにして、消耗したら補充すればいいという野蛮な社会そのものです。
繰り返しますが、社会がどう変わろうと、人間の能力分布や、能力の工程の配分は正規分します。つまり、経営者が能力のあるものだけを選別して使おうとすれば、その選別から漏れたものをどうするかを、きちんと考えるのが社会の責任です。それが文化です。文明です。
この国は高度成長によって、賃金水準が上がり、コストアップになり、途上国からの追い上げで移調を維持できなくなってしまいました。そこで、国民を非正規と言う階層化を取り入れて賃金水準を下げるという方策をとりました。こんな姑息な対策はいずれ行き詰まるのは目に見えています。そこで今度は、なりふり構わず、外国人を受け入れて低賃金で使おうとしています。つまり使い捨てにする奴隷制度と同じ構造を取り込もうとしているのです。そんな制度がヨーロッパでもアメリカでもすでに破綻していることは既成の事実です。社会が崩壊します。日本人が千年の歴史をかけて作り出してきた運命共同体の崩壊だからです。
ゆたかになった国民を使用する唯一の方策は、より付加価値の高い技術の高度化によって、他に追いつかれない高付加価値生産性を獲得するしかないのです。その気概をトヨタの社長も諦めてしまったようです。日本と言う国家が崩壊する始まりの一歩を踏み出してしまったのです。
考えてみれば、日本の高度成長などと言うものも、ローテクの生産性を世界に先駆けて高めたという一時のあだ花だったとも言えます。貧すれば鈍する。それがこの国の現状ですね。
ちょっとよくわからないのですが、あなたが礼賛される終身雇用も、あなたの二つ目のコメントによるとあなたのいた会社でも継続できなかったわけですよね。早期退職させられたんでしょ?また今、トヨタの社長も終身雇用は続けられないとアナウンスしましたよね。
つまり終身雇用は高度成長期に経済が拡大した短い時間しか存立できなかったのではないですか?永続できない制度なのは欠陥制度ではないですか?
あなたの会社でも怨嗟の声があふれかえったと書いてらっしゃるのに、なぜ礼賛されているのかがまったくわかりません。
むしろ不思議に感じるのは私の方です。私の挙げた事例は、終身雇用とも年功序列とも全く関係のない話です。勿論、終身雇用を継続できなかった点だけを取れば終身雇用が破綻したともいえるのですが、それは単に、外形的な問題であるにすぎません。終身雇用制や年功序列制でなければ、リストラも、工場閉鎖もなかったなどと言える根拠はどこにもないからです。日本が高度成長の終焉を迎えたのは、他でもない、途上国、特に中国とのコスト競争に負けたからです。理由は簡単です。一つは中国の自由化が進んだこと、も一つは日本の産業が産業の高度化を忘れ、成長率の高さだけに酔いしれていたからです。世界第2位のGDPに浮かれて思い上がっていました。でもそれは、家電や半導体などのローテク製品を世界に先駆けて大量生産し、人気商品を作り出したというに過ぎなかったのです。でも、どのみちローテク製品ですから、途上国が成熟して追従してくれば、もっと低賃金で同じものを作り出してしまったのです。それが中国や韓国です。
私も、中国で仕事をしましたが、党委の中国の賃金レベルは、日本の三十分の一でした。それで物価は十分の一です。その経済に対抗する手段は、日本の賃金を三十分の一にするしかないのです。年功序列をやめて、終身雇用をやめたからと言って対抗できるようなものではないのです。
つまり年功序列や終身雇用が永続できない欠陥制度であったというあなたの指摘は全く的外れで間違ったものだということです。トヨタの社長が終身雇用は続けられないとアナウンスしたのも、実はアメリカの真似をしたいというに過ぎないのです。どんな社会か、それは奴隷社会です。その結果トランプの様な異形が表れているのにです。愚かなことです。
景気が悪くなった時に、企業に都合よくいつでも労働者が無制限に首を切られる社会とはどんな社会でしょうか。能力のないものが、自己責任を理由に、低賃金で放置されるような社会とはどんな社会でしょうか。国民の69%が、相対評価3であるような社会です。
実は終身雇用や年功序列制が亡くなったからと言って、豊かな社会など作れないのです。出来るのは1%の富裕層が、99%の富を独占する歪んだ社会です。そんなものに何の魅力もないのです。この国は江戸時代も、明治時代も、ずっと終身雇用、年功序列制でやってきたのです。それはすべての国民が等しく生存を担保しあう運命共同体の社会です。その基礎があったから、明治政府は簡単に富国強兵を完成させ列強に伍す国を造れたのです。
平成の失われた20年は、まさに、その社会が崩壊した時期だったのです。この国はもう、豊かなものがより豊かになり、貧しいものがより貧しくなるしかない国になってしまいました。
資本家と無産階級が対立する社会です。あなたのような強者にとっては願ってもない社会でしょう。めでたしめでたしです。でも、やがて革命が起きますよ。
江戸時代は終身雇用と言えないでしょう。明治時代も終身雇用だったというのは完全に事実誤認です。本文に書いた野口悠紀雄氏の本を読んでください。終身雇用は戦時体制の中整った制度で、明治期はむしろ転職が当たり前でした。もう少し勉強された方がいいですね。
>終身雇用を継続できなかった点だけを取れば終身雇用が破綻したともいえるのですが、それは単に、外形的な問題であるにすぎません。
と書かれてますが、外形的な問題、つまり国際経済の中続けられなかったから終身雇用には問題があったわけです。中国など新興国から製造業で追い上げられた時に考え直せばよかったのに、終身雇用で製造業を頑張り続けて勝てなかったのがいまの日本です。英米は産業構造を作り変えてあらたな発展を遂げているのに日本は取り残されました。その原因の象徴が終身雇用なのです。
あなたの世代がそれを反省できなかったからこうなった。あなたの世代はそれでも年金は十分だしいいのでしょうね。あなたの世代がいまあなたが書いているように責任も感じず反省もせず自己弁護ばかりしている。だからそれに続く我々の世代は責任を取ろうよ、反省しようよ、何をどうすべきか今からでも考えようよ、そう訴えています。
あなたの世代にも同じように考えて欲しいとも思っていましたが、あなたの論を読んで、もう無理なのだと痛感しました。とても悲しい気持ちです。
とても悲しい気持ちになったのは私も同じです。あなたたちは、終身雇用を廃棄して、どんなシステムを構築しようとしているのだろうと、寧ろ暗澹たる気持ちになります。
でもね、あなたの言う終身雇用と、私が書いてきたそれとはずいぶんかけ離れたものであるようですね。終身雇用の概念が崩れだしたのは、昭和50年代頃からです。それまで社会全体が、終身雇用で当たり前だったのです。でもね、だれでも普通に考えていた終身雇用は、終身雇用制だから解雇ができないなどと言う歪んだものではなかったのです。解雇四要件などと言う判例が出たのも昭和50年代半ばです。本来、終身雇用制は、契約ではありません。社会的な合意であって、もちろん企業が正当な要件があって、正当な手続きを摂ればいつでも解雇権を執行できる制度です。だから、労働組合は、当時、雇用の確保を闘争の最大のテーマとして、常に経営をチェックしていたのです。あなたたちの終身雇用制の概念は、歴史的には間違っています。年功序列制の概念も間違っています。これも、解雇4要件も、官公労などの民間とは程遠い労働組合活動の中で生まれてきた歪みです。民間企業が、青天井の年功序列制など実現できるはずがないのです。それができたのは、税金で賃金を払う公務員組合だけだったのです。それがいつの間にか、年功序列の定義にすり替えられてしまったのです。年功序列制にあっては、人員構成が変わらなければ、支払賃金は毎年同一です。毎年同じだけの賃金を会社は負担しているだけです。企業の年齢構成をどう維持するかは企業の一方的責任ですから、例えば団塊の世代によってある年齢層が大きく膨らむときの負担は当然経営の責任に帰せられるべきものです。ベースアップも本来は、経済が膨らんだ分の補填ですから、企業の負担は増えないのです。しかも、年功序列賃金制では、能力勤怠にかかわらず毎年誰でも同じだけ賃金が上がります。これを悪平等と言い始めたのも昭和50年代頃からです。能力のある若者もやがて年老いて、能力が落ちる。頭の悪いものは力を出せ、能力も力もないものは、まじめに誠実に働け。そんな互恵の共感が社会全体に合ったから、互いの不足の補い合って、共同体を構築したのです。
終身雇用制、年功序列制は、雇用の流動化を高める機能もあります。年齢にかかわらず、同じ年齢なら、どこの企業でも大体同じ賃金が保障されていました。それが世間並みと言う相場観です。当然、大企業や、も買っている企業は高い水準にありました。でもそのことは、それぞれの企業の状況を受け入れることで違いを認め合う寛容が共有されていたのです。
ところで、学者は、協議に定義して、終身雇用は昭和になったからなんて言いますが、そんなことはありません。江戸時代から、丁稚小僧がいて手代がいて、番頭、大番頭と言う階級がすでに成立していました。職人だって、同じことです。アメリカの綿花畑の奴隷には、そんな階級などなかったのです。せいぜい、取り締まり監視する経営者の手先になる階層がいただけです。
アメリカの奴隷制や、悲惨なぷあーホワイトの階層の有様は例えば「怒りの葡萄」みたいな小説に精緻に書かれています。アメリカの農業は、日本でいえば県単位にも相当するような農地を占有する一人の農民が、仕事を求めて、全国を漂游するミグレーションワーカーや移民によって経営されています。構造は奴隷制と変わらないのです。フランスでもイギリスでもドイツでも、下層の汚い過酷な仕事は、移民や、難民を受け入れてやってきたのです。その構造は今も全く変わっていないのです。ロシアの農民もひどい生活です。まさに、農奴と貴族の社会をそのまま現代に引きずっているのです。
終身雇用と年功序列をやめれば、どんな夢のような社会毛でkるのでしょう。企業が、簡単に首切りできる社会、つまり労働者を使い捨てにする社会しかないではないですか。それこそ、欧米が現代まで引き継いできた社会なのです。だからトランプ政権が、ぷあーホワイトの反旗の象徴として誕生したのです。悲しむのはどちらでしょう。
明治時代には終身雇用制はなかったので、日本がずっと終身雇用制だったというのは誤りです。
そして私が先のコメントで聞いているのは一点です。終身雇用制は中国に突き崩されたのだから永続的な制度とは言えないのではないですか?
> 明治時代には終身雇用制はなかったので、日本がずっと終身雇用制だったというのは誤りです。
これね、もちろん当時、終身雇用などと言う言葉そのものがありませんでしたから、それをもって終身雇用がなかったというのは間違いです。この国は、江戸時代以前からずっと終身雇用でやってきたのです。それを、一所懸命、一生懸命と書き表してきたのです。明治期では、廃藩置県や身分制度の改変等革命的な変革が起きましたが、この構造は変わりませんでした。だから、極めて短期間に近代化の大変革が実現できたのです。当時の主要な産業である、炭鉱、鉄鋼業、造船業などの近代工業化の原動力になった産業分野では、財閥の資金力と、進取の気鋭にあふれた技術者の一群か中心になって急激な工業化を進めました。其の産業の中で中心的な役割を果たしたのは、親方を中心にする下請け組織を企業の中華鵜に取り込んだことです。財閥直系の企業の社員はすべて高級管理職です。現業の管理は館を中心にした下請けが企業現場に入り込んでいたのです。戦後まで鉄鋼、造船などではこの組織は生き残っていました。親方が、労務管理も、賃金の管理も、福利厚生の管理もしたのです。若い者には、小遣い程度の賃金で、結婚し子供ができれば賃金を上げて生活を維持できるようにして、勤続が長ければ功労に報いて、年功序列制を維持したのです。勿論、終身雇用です。つまり労働者に重大な過失がなければ解雇されることもなかったのです。親方も景気に合わせて解雇するなどと言うことはしませんでした。無理をしてでも雇用を守ることに努めたのです。それこそが義理人情や、道理の世界だからです。
>終身雇用制は中国に突き崩されたのだから永続的な制度とは言えないのではないですか?
これもね、中国が突き崩したのは永続的な終身雇用制ではありません。中国に突き崩されたのはほかでもないこの国の産業構造そのものです。
もともと、日本の高度成長は、ヨーロッパやアメリカが作り上げてきたような、産業の高度化を繰り返して脱皮して豊かさを維持してきたような革新性を全く含んでいませんでした。この違いがトヨタの日産の違いでもあったのです。トヨタは曲がりなりにも、新規事業を開発して生き残りを図りました。プリウスです。日産はゴーンを迎えて、経営の刷新を図って経営を改造しようとしました。それでも及ばず、実態は天と地ほどもかけ離れてしまいました。ベンツや、BMWは日本の追撃も中国の追撃も交わして、依然として世界ブランドです。アメリカは、アップルやマイクロソフトが、ハードからソフトに転換を図って産業構造を変革して対応し、さらにアマゾンやグーグルに替えてきました。日本の企業家は何もできませんでした。挙句考え付いたのが労働者の賃下げと奴隷化です。
あなたの主張は、まさに、終身雇用を捨てて、年功序列制を駆逐して、労働者を中国やベトナム並みの低賃金で酷使し、必要があればいつでも首を切れる社会を作ろうとする無能な経営者の目論見そのものです。
国が豊かになるためには、常に、他の追随を許さない高付加価値化を国是として、たえざる成長と確信を維持することによってしか成立しないのです。出る杭を打ち、新進の起業家を叩き潰すことにしか目がいかない日本の企業家の体質がこの国をつぶしたのです。そこに気づかなければ再起不能です。終身雇用や年功序列は、誠実な信頼関係を維持することで構築されます。
もうアkラナイから賃下げ、暇だから首きりなんて言う経営が跋扈すれば、既に社会は崩壊します。それが共産圏の失敗でもあったのです。
あなたの厚顔無恥ぶりには驚愕です。
明治時代は終身雇用はなかったということは、野口悠紀雄氏が「1940年体制」の中で当時のデータを分析して証明しています。江戸時代が終身雇用だったというのは、そもそも終身雇用は会社組織上の言葉なので江戸時代には当てはめようがありません。中世近世の固定的な身分制度を元に言ってるのならヨーロッパも終身雇用制だったことになりますよね。日本が江戸時代以来ずっと終身雇用制度だったというのはあなたの妄想です。
何か論があるなら聞いてみようと思いましたが、結局あなたが自慢したい自分で組み立てたご高説を書く場を与えてしまっただけでした。わざわざ人のブログのコメント欄にやって来て書きたいこと書いていい気持ちにさせてあげてるだけですね。無駄なやりとりでした。
もうご高説を賜る気にはならないのでこれでおしまいにします。以降、あなたが書き込んでもすぐ削除します。ここに書いた文章だけでブログになるでしょうから、人のコメント欄なんかでいい気になるより自分でブログを立ち上げればいいでしょう。すごく簡単ですよ。私は教えませんが。
これ以上はコメント書かせませんがここまでのやり取りはあなたの世代の悪い言論の例としてさらしておきます。
では、さようなら