さて今日は気を取り直して、世界戦略のつづきを書くよ。
前回の”その6”では、もうビッグビジネスじゃなくていいじゃない、スモールでいいじゃないと書いた。でもそれだと若い人は不満だろう。また悲観論だとか言われてもアレなので、もっと前向きなことを書いてみよう。
しかしここで前向きなことに入る前に、ちょっとおさらいしとかないといけない。
ビッグビジネスと言えばハリウッドだろう。そのハリウッドがビッグビジネス足りえたのは、日本のコンテンツ産業と決定的な違いがあるから。そこはふまえないといけないだろうね。
決定的な違いのひとつは、何度も何度も書いてきた人口の大きさ、市場の大きさのこともある。日本は中途半端な世界第2位だったから中途半端に満足できちゃってたね、ってことはもう書いたよね。
でももうひとつ大きく違う点がある。そしてそっちの方がある意味、決定的だったかもしれない。それはコンテンツの流通構造というかマネタイズの基本的なちがい。考え方そのものが違う。流行りの言い方で言えばコンテンツの生態系、エコシステムがまるでちがうものになっている。
簡単に言うと、ハリウッドの場合、コンテンツ流通は何度も何度も、いろんな角度で、いろんな市場で展開されていくのに対し、日本のやり方は最初の一回こっきり市場だった。
ハリウッドの映像コンテンツがどのようにして多角的なエコシステムになっていったのか、いまひとつわからない。でもどうやら、70年代に大きく変化した、らしいのだ。というのは、そのあたりからケーブルテレビが伸びていった。それと、フィンシン法などのマスメディアの利権規制が制度化されていったこと。
フィンシン法とは、これも何度か書いた気がするんだけど、ネットワーク局でゴールデンタイムプライムタイムに流す番組の何割かだかを外部製作にしないといけない、というもの。テレビ局が自らの電波を自らのコンテンツに独占して使っちゃダメと言う、日本の感覚からすると強引すぎて理解しにくい法律。テレビ局の電波はいい番組作れる人たちに解放するんだという思想なんでしょう。でもおそらく、要するにハリウッドがその枠を欲しかったからロビー活動いっぱいやって通した法律なんでしょう。
そういう大ざっぱな知識はぼくも持ってるんだけど、このフィンシン法についてはもっと詳しく知りたいと常々思っている。こういうところこそ、誰かがみっちり研究してくれるといいなあ。
とにかく大ざっぱな知識で続けると、アメリカではそんな風にスタジオ軸で、つまりは作り手軸で考え方が再構築されたわけ、70年代に。プライムタイムで流すドラマをスタジオが作れるし、それをアメリカ中のケーブルテレビが買ってくれる二次市場もできあがっていった。これをシンジケーション市場という。
この感覚は、アメリカ国内だけでなく、世界各国に映像コンテンツを売りましょう、という流れに自然になっていくだろう。そしてさらに、ネットが出てきてVODサービスが整っていくと、最初こそ躊躇するにしても、いけそうじゃん、となると、見る見る展開していくことになる。VODの下地ができちゃってたわけだから。
かくして、アメリカでは映像コンテンツを何度も何度もマネタイズするエコシステムができちゃって、インターネット時代にも対応しやすいわけでした。
さて日本はどうだろう。日本のエコシステムもよくできていた。ただしアメリカとは真逆の構造だけど。それは、在京キー局一点(5点?)集中システム。
つまり、映像コンテンツのマネタイズはすべて在京キー局の最初の放送時に集約されている。最初の放送時にX千万円の広告スポンサーが集められる、なのでX千万円で制作する。そういう構造。このX千万円がそこそこの金額なので、やってこれた、これまでは、意外にいけてた。日本の場合はケーブルテレビがさほど発達する必要もなく、ネットワークの維持がむしろ広告費獲得には重要。だから、地方局に買ってもらうのではなくむしろお金を渡して放送してもらっていた。
このエコシステムには大きな長所があった。それはわかりやすいこと。5つのキー局、上位の広告代理店と取引すれば、だいたいのことが足りた。用事が済んだ。複雑なマネタイズ構造を勘定する必要がなかった。この放送枠にいくらのスポンサードがつく、だったらその枠内で番組を作ればいい。入ってくるマネーは制作費以上にはならないが、それでよかった。事足りたから。
ただ、いまとなってはこのシステムには欠点がある。ひとつは、すべてが視聴率になっちゃう。視聴率はふわふわしたもの、浮動票的なものだ。それはテレビをみているぼくたちがよくわかっている。すごく観たいもの、見応えのあるものに、必ずしもチャンネルを落ち着けない。だから視聴率が映像コンテンツの価値とイコールではない。イコールではないはずなのに、マネタイズの理屈がそこでしかできないから、経済価値はイコールにしかならない。
例えば『LOST』の視聴率は数%なのだそうだ。あれだけ世界中の人びとを物語の混乱の渦に巻き込んでいる映像コンテンツが、数%。日本なら制作費との兼合いから打ちきりになるだろう。でもアメリカでは成立する。何億円もかけて製作する。最初の放送だけでリクープしようなんて考えていないからだ。視聴率がマネタイズのすべて、だとこうはいかない。逆に言うと、視聴率がすべてだと、その後のマネタイズがしやすい企画が生まれにくいのかもしれない。
それからもうひとつ、このわかりやすいエコシステムのもっと哀しい欠陥は、作り手をアホにしてきた、という点だろう。作り手は、テレビ局もしくは代理店さえ見ておけばよかった。そしてそれら上流から制作費がいくら降りてくるか、だけを考えればよかった。というか、それ以外に経済的な要素を考えるポイントがなかった。そうしたシステムが生み出す意識に加えて、”活動屋”の世界から流れてきた職人意識や、日本の戦後左翼的な価値観(資本家は悪だ!)もミックスされて、お金もうけに興味ない独特のクリエイター気質が醸成されてしまった。おれたちは数字とか考えるのがイヤだからこういう世界に入ったわけでさあ、と平気で言ってしまう心性。それは、このテレビ局や代理店にぶらさがって甘えていれば生きていける、独特のエコシステムに起因するのだとぼくは思う。(これは局内、代理店内の制作セクションの人にも言えることだろうね)
このエコシステムはこれまではよかった。とてもよかった。よくできていた。わかりやすかったし、作り手は制作に専念できた。でもここへ来て、上記の2点の欠陥が大きくマイナスに働いている。
そこをどうするか、どう乗り越えるかが、個別の会社の課題でもあり、個々人の課題でもあるのだと思う。
そして、世界戦略を考える際もポイントとなる。世界戦略を構築することは、まったく新しいエコシステムを作り上げることだ。並大抵のことじゃないし、何年も何十年もかかるかもしれない。
うへー、またこってり濃厚な記事を書いてしまったよ。しかもまだまだ、書くべきこと、あるやんけ。ってわけで、なかなか終わらない、あんたとおいらの世界戦略!
関連記事