放送業界のアカデミー賞とも言えるギャラクシー賞の報道活動部門で今年、大賞を受賞したのは並み居る地上波局ではなく鳥取県米子市のケーブルテレビ局、中海テレビだった。私は、おおさすがギャラクシー賞!と感心した。中海テレビの素晴らしさを、他ならぬギャラクシー賞が評価するのは、当然と思う一方で、そういう時代が来たのだなと受けとめた。
ジャーナリズムの役割に感じるうさん臭さ
映画「さよならテレビ」を見た時、東海テレビの報道の人が学校に行って子どもたちにジャーナリズムの役割を3つだと説明する場面があった。
- 事実を調べて伝える
- 権力の監視
- 弱者への寄り添い
これを見た時、私は「ええー?!」とかなりビックリした。そしてイヤだなと感じた。読者視聴者として報道に期待するのは「事実」に尽きると私は考えている。もちろん権力が何かしでかしたら事実として伝えてほしいし、社会的立場が弱い人が困窮してたらそれを事実として伝えてほしいとも思う。ただ、その二つがわざわざミッションとして挙げられるのは奇妙に感じた。そして時々、ジャーナリストと呼ばれる人びとに感じる何とも言えない近寄りがたさ、もっと言うとうさんくささはここにルーツがあると思った。
ジャーナリストを自認する人に言うと喧嘩になりそうだが、サラリーマンに過ぎないのに世界から使命を与えられてるような彼らの正義感が、私は本当にイヤなのだ。全員がそうということでは決してない。だが時折、そう言う人を見受けるし、不思議とそれが全体になるとその鼻につく正義感が漂ってくるのだ。
ネット民がマスゴミと呼ぶのも、この辺りの感覚の反映ではないかと思う。30〜40代の男性はむしろ私より強くこの感覚を持っているのではないか。
「地域のために」報道部を持つケーブル局
2年前に取材した中海テレビは、ケーブル局ではおそらく唯一、報道部を持つ局だ。だが取材して理解した彼らの感覚は、上に書いたような使命感と違っていた。使命感の方向が違うのだ。
正義感が鼻につくのは、そこに「上から目線」を感じるからだ。だが中海テレビの報道姿勢は、住民と共にある姿勢だ。そして権力監視ではなく、行政に疑問があったら住民を巻き込み、行政を責めるのではなく行政と共に解決を求める態度なのだ。あそこに欠陥がある!あの首長の失政だ!そんな態度とは180度違う。
中海テレビの成り立ちがそうさせているのだと思う。地元の170の企業・自治体・個人が100万円ずつの均等出資で設立された。自治体寄りでもなく、企業寄りでもなく、ひとりの地域の名士でもなく、その地域こそが設立の基盤だ。「地域のために」がDNAになっている。
(中海テレビに取材して2年前にGALACに掲載した記事を私が運営するMediaBorderに再掲しているのでよかったらご覧ください→MediaBorder該当記事)
中海テレビの姿勢はすべてのメディアのモデル?
中海テレビの姿勢は、少し前なら「そういうケーブル局もあっていいね」で終わったかもしれない。だが私はいま、中海テレビの報道姿勢はすべてのメディアにとって見習うべきモデルなのではないかと考えている。ひとつには、鼻につく正義感がないからだが、もうひとつは「地域密着」のお手本のような理念だからだ。
例えば地上波ローカル局は最近、テレビ広告市場の減退で危機に見舞われている。それでもそのエリアに生き残るとしたら、地域で必要とされるかどうかに尽きるだろう。ローカル局は地域に根ざしているようでどこか、中央を向いていた。在京キー局を慮りナショナルクライアントのケアをしていれば営業効率は良かったのだ。だがいま、ナショナルクライアントの広告出稿の受皿として名乗れるためにも、地域に密着し必要とされ愛されていることが必要だ。当たり前のことに日本中の放送局が気づきはじめている。
それはまた実は、キー局にも同じことが言えるはずだ。あるいは新聞にも言えることだろう。メディアは実は「ひとびと」のコミュニティに支えられており、だからこそ広告出稿も生まれる。ひとりよがりにいいものを作っていても、あるいは例え莫大なアクセス数があったとしても、コミュニティに向き合っていないとビジネスにならないのだ。
すべてのメディアにとって中海テレビがモデルになるのではないか。少なくとも学ぶべき点を見出せるのではないか。いま、そういう時代にさしかかっていると思う。コロナはそのことを明示させる機会になっているかもしれない。
ウェビナー「地上波の知らないケーブルテレビ」8/19開催
8月19日に中海テレビをフィーチャーしたウェビナーを開催します。よかったら参加してください。手を挙げたら発言してもらえる参加型をめざしているので、ぜひ楽しんでもらえればと思います。
※本ウェビナー解説記事はこちら→8月19日ウェビナー「地上波の知らないケーブルテレビ〜中海テレビにNHKが聞く」開催
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