このブログはハフィントンポストに転載してもらえるようになった。最初に載せてもらった記事は、第一回だからとオリジナルな文章を書いた。「もう消費者なんていない時代に、広告は広告でいいのだろうか。」と題したその記事は、ツッコミどころ満載だったもんでかえってたくさんの人に読んでもらった。
その後も、その記事の続き的な内容の記事をいくつか書いた。
「広告はパーツになりむにゃむにゃしたコミュニティの入口になる」
「お金を「多く使う」より「善く使いたい」。それが21世紀なんだろうね」
こうした記事でぼくがもやもやと考えているのは、これまでの広告とはちがう広告だ。広告とはちがうのだから広告とは呼ばないのかもしれないが。
そもそも、広告とは、どういう構造だろうか。
メディアの中に記事などの純粋なコンテンツとは別のスペース(ページや時間など)を設け、その“広告スペース”を販売する。広告を出したい企業の側は、そのスペースを購入し、その枠の中で自分たちがメッセージしたいことをメッセージし、見せたいビジュアルを見せる。その中身には基本的にメディア側は関与しない。代わりに広告制作スタッフが企業の意向を受けて中身を制作する。コピーライターやアートディレクター、CMプランナーなどがその作業を行なう。
広告枠の中で企業が自分たちの伝えたいことを伝える。観る側はその前提で広告を見る。メディア側はよほどのことがない限り中身に口を挟まない。
それが広告の構造だ。
メディア側が作成したコンテンツと、明確にスペースが分けられている。
この図は、このところ人前で話す際に使っているスライドの中の一枚だ。ここでは“放送“としているが、メディア全般に言えることではある。
まずは放送で考えてもらうといい。テレビ局はテレビ番組を一所懸命制作する。でも、直接的には番組と番組の間の時間が販売されている。番組そのものをスポンサーに売っているのではないのだ。まあ多少強引に言ってのけているわけだが。
新聞や雑誌は“購読料”を払うからかなりちがう。記事にお金を払っているといえる。だがネットでは基本無料となり、やはり広告枠がお金になる。
そして売り物となる広告枠はメディア側は制作しない。これはよく考えると驚くべきことではないかな?
この構造が広告で、今後は広告が広告とは別のものになるのなら、いま書いた“構造“の反対になるのかもしれない。つまり、記事と広告の区別がなくなる。広告の中身もメディア側が制作する。
そんな新しい構造の広告とはちがう広告を、“ブランドコンテンツ“と言ったりする。最近、ネット上では議論になるし、事例も出てきている。
話題になったのは、ライブドアの谷口Pによる映画の宣伝だ。中でも「大阪の虎ガラのオバチャンと227分デートしてみた!」と題したものは、何千もの「いいね!」が押され拡散した。ざっと読んでもらうとわかるが、「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」のDVDの宣伝なのだ。トラと若者が一緒に過ごす、という映画の設定をひねって移し替えている。あほらしくて大好きだ。
まったくちがう方向性で、東洋経済オンラインもチャレンジしている。「こんな働き方があってもいいじゃないか」と題した、これも記事だけど宣伝、というもの。こちらはグッと変わってマジメ路線だ。
こういうところにメディアと広告の未来があるかもね、と、ハフィントンポストの松浦編集長に言ったら、ぼくらも取り組みたいんですよね、と、なぜか微笑みながら言うのだ。謎の微笑みだなあ、と思っていたら、先日こんなリリースが出ていた。
「cci、「ザ・ハフィントン・ポスト」日本版で「Category Sponsored」広告を提供開始」
ん?カテゴリー・スポンサード広告?これはひょっとして!と思ったらやっぱりだった。
「VISION2020 ヒトとクルマの安全な社会の実現に向けて」というページができている。しかもだ、VISION2020の書体はVOLVOの書体だ。VOLVOのブランドコンテンツなのだ。
「サイクリスト検知機能を搭載」と題した記事を読むと、自転車に乗るヒトを検知して事故を回避する機能を開発し装備したというもの。それは素晴らしいなあ。
VISION2020のページには上記メイン記事以外にも交通や安全に関する様々な記事の見出しが並んでいる。でもそれらは、VOLVOとは関係なく、それぞれ独自に書かれたものだ。VOLVOとは関係ないけど、さっきの記事には関係するわけだ。全体として交通と安全に関する記事をハフィントンポストが編集しているし、それがpresented by VOLVOのイメージなっている。
これはぼくが前に書いた”もやもやしたコミュニティ”に極めて近い事例なのかもしれない。テーマに沿ったコンテンツを読んでいくと自然に押しつけがましくなく企業側のメッセージも受けとめる。しかもハフィントンポストが作成した記事なのだ。
記事と広告の枠が無くなり、メディア側が作成した。さっきの広告の構造を一度解体しているのだ。
この試みがすべてではないし完璧なものだと言うつもりもないが、少なくとも、これからの広告、広告の次の広告のひとつの形を示しているのだと言える。この事例は、さっきの「大阪の虎柄のおばちゃん」の例みたいにわかりやすく派手ではない。けれども、こんな風に静かにあちこちで、広告は進化していくのかもしれないね。
コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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