ぼくが大学時代を過ごした80年代は、まだ学生運動の残り火がキャンパスでくすぶっていた。構内のあちこちに“立て看”が立てられていて、独特の”立て看文字”でアジテーションしていた。セクトと呼ばれる左翼の政治集団がいくつかあり、穏健なものから過激なものまで揃っていた。どのセクトも自民党政権を敵視し、アメリカは帝国主義で世界の悪者だった。内閣が替わるたびに“打倒○○政権”と書かれた立て看が立った。
でも実際にセクトに参加するのはごく限られた一部の学生で、何回も留年している古参学生が中心だったらしい。同級生では参加する者はいなかった。意外に共産党系の民青という組織が各大学で勢力を保っており、自治会を事実上牛耳っていたりした。民青は他のセクトに比べるとずいぶん穏健で、考えすぎの生徒会長みたいな真面目なタイプが入っていた。ぼくたちは“民コロ”と呼んで馬鹿にしていた。民青の勢力維持は例外的で、左翼セクトの活動は80年代を通じて下火になっていった。
マスメディアなどで言論的な活動をする知識人・文化人も、“左翼的”な言動の人が多かったと思う。少なくとも70年代までは進歩的知識人は左寄りの考え方をわりとおおっぴらに語っていた。80年代に入ってもいろんな番組や新聞雑誌に居残っていたが、だんだん減っていった。それに代わって政治色の薄い、カウンターカルチャーから出てきた文化人がメジャーになっていった。
いつの間にかマスメディアはそうした政治色を持たない人びとが中心になり、左翼的な言説の人びとは古びた存在になっていった。
では右翼的な人びとはどうだったかというと、その頃から表に出てこなかった。当時の右翼と言えば、街宣カーであちこちに乗りつけてマイクを通して国家を憂える人びとで、そのバックにはどうやら和服を着て日本刀と掛け軸が飾られた床の間の前に座る、政界のフィクサーみたいな人物がいるイメージだった。力を失ったわけではないが、表には出てこない。実は政界をほんとうに動かしている謎に包まれた存在。それが右翼的な人びとなのだと思っていた。
当時のぼくたちにとっては、右翼はすでに、左翼は徐々に、言論のフロントラインから後退していく人びとであり、それはこの国の言論の進歩だと受け止めていた。右だ左だの議論をこの国は卒業できたのだと信じていた。
90年代初頭には“冷戦の崩壊”が起こり、ベルリンの壁が壊され、ソ連はバラバラになった。共産主義は敗退し、世界は右左のイデオロギーを超えた地平に向かうのだと思わせた。当時すでに不定期に放送されていた「朝まで生テレビ」で、懐かしの両陣営の人びとが暑苦しく激しくののしりあうように議論しているのを、時折見かけてその存在を確認したものだ。
それから二十年ほどが経っている。
猪瀬直樹氏が東京都知事の座を追われるように辞任し、さて誰が候補として登場するのだろうと注目された。
年末に最初に名乗りを挙げたのは、宇都宮建児氏という元日弁連会長で共産党のバックアップを受けていた。共産党はどんな選挙にも候補を出してくるのでいつものことのようだが、他の選挙にはない大物感と勢いを感じた。都政に関係ないはずの反原発を口にしていたのも勢いを加速していた。これは左翼の復活か?という危惧が頭をかすめた。
誰か出てこないのか?誰か早く出てきてよ。と思った。
年明けに田母神俊雄氏が立候補を表明した。誰もが知っている元自衛隊幕僚長で、退官間際に論文で騒動を巻き起こした人物だ。きっとピュアな思いを持つ愛国者なんだろう。でも右左で言えば思い切り右側の発言者だ。これほど明確に右寄りの著名な人物が大きな選挙に候補として登場したことはなかっただろう。
あれ?と思った。このままだと、右と左の激突か?おかしいぞ、もう昭和が終わってから二十五年も経ったのに。
都知事選はその後新たな候補者も現れ、右左の話ではなくなった。でも考えようによっては右左の議論以上に混迷の極みになりかけている。この中から東京都民は誰かを選ばねばならないし、どうやら主要四候補の誰かにはなるのだろう。どうしたらいいものか。
政治の議論はこの二十年間、右も左も後退したはずなのに、ここ数年で逆にどちらも元気になっているようだ。派遣だ請負だと、雇用問題になると懐かしき左翼みたいな言説が飛び交いプロレタリア文学『蟹工船』が復活したりしていた。尖閣だ竹島だで領土問題が煙をあげれば、特別なユニフォームを着てない人までが熱血愛国者ぶりを発揮する。
それぞれの局面で展開される議論は別に間違った内容でもないし、ぼくも誰かに賛成したり反対意見を持ったりする。ただ、ふと我に返って引いた目で見るとなんだかタイムマシンに乗ったような気分にもなる。
ぼくたちはそういうところから、次に進んだんじゃなかったっけ?
でも現実には、進んでいなかった。何かを解決して次に行ったのではなかったからだ。何も解決してこなかったのに、まともな議論さえしてこなかった。むしろこのところ、やっとまともな議論をするようになったのかもしれない。
右と左の相克を乗り越えて、上へ向かうための新しい理念を、ぼくたちはまったく創れていないのだ。
だからともすると、右や左にからめとられる。なぜならば右や左には歴史があるので、なるほどと思える体系を構築できているのだ。正解を解説付きで即座に教えてもらえるので、ついふらふらと答えを見せてもらって感心し、吸い込まれてしまう。
でもぼくたちは、そういう吸い付いてくるイデオロギーから身体を引き離さなければならないと思う。現時点で存在するイデオロギーは、20世紀の、あるいは昭和の遺物だと思った方がいい。いまはよくてもやっぱり十年先までは持たないんじゃないか。
そんなこと言ってたら政治的な行動ができない、例えば選挙で投票もできないので、イデオロギーからできるだけ離れて、“制度”だけ見るしかないとぼくは思う。
例えば田母神氏の掲げる政策は、意外によくできている。一本筋が通っていて、ちゃんと考えた跡がある。そして「心のふるさと東京」なんてフレーズについふらふらと引き込まれかねない。でもそこには実は、イデオロギーが漂う。精神的に引きずられそうなところをぐいっと自分を留めて、ただ彼が提示する制度案だけを見る。
宇都宮氏は「希望の政策」を掲げているが、「希望」というフレーズにほだされないようにする。その上で、彼が並べている制度が自分に必要か、あるいは実現性がどうかを見つめるのだ。「希望」という言葉の裏にかいま見えるやっぱり左翼だなあ的な価値観はシャットアウトする。
制度から組み立てたら、ひょっとしたら上へ進めるのかもしれない、と思う。例えばこないだの「赤ちゃんの議論」を突き詰めると、保育施設が不足している問題が出てくるが、それだけでなく女性の職場を包む空気の問題や、男性も含めて満員電車に毎日押し込められる働き方の問題が出てくる。
それらを解決する制度はできないか。そう考えていった方がいい気がする。目の前の問題にいま求められているはずの制度、必要なはずのルールを積み上げていった先に、新しい理念ができるのではないか。
そう考えると、みんなで制度を練り上げる家入氏の試みは面白い。ただ、もっと早く取り掛かっていればよかった。選挙公示日に「みんなでつくった政策はこれです」と発表できたら完璧だっただろう。
前に「日本人の常識は、実は昭和の常識に過ぎない」の記事を書いた時、“昭和の常識”が生まれた背景にふれた。当時の内務官僚が日本の貧困と格差を解決するために構築した制度のカタマリが“昭和”であり、そこでは左翼的な正義感と右翼的な愛国心が交錯していた。右と左は紙一重なのだ。
右左を克服することで、ぼくたちは上へ向かえる。そんな考え方で、今度の都知事選にも臨みたいと思う。
アートディレクター上田豪氏と続けているビジュアルとコピーから入るシリーズ。今回は悩ましかった。実は毎回、3つほどのコピーを渡して一点ずつビジュアルを考えてもらっている。前回の「赤ちゃんにきびしい国」がとてつもなくバズる中、次のコピーがこれだった。露骨に政治を題材にしているので、さすがにビジュアルは抑えるべきか?でも上田氏はむしろ硬派な絵づくりをし、ぼくもアグリーした。ちょっとねえ、ハードかなあ。どう受け止められるだろう。
コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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