さて前回の記事の続きだよ。前回のを読んでないって人は、ここクリックして前回から読んでね。まあ簡単にまとめておくと、12月9日夜の日本テレビでの『天空の城ラピュタ』放送の際、クライマックスで”バルス”という呪文を映画と一緒にネット上で唱える”祭り”が起こって楽しかった、という話。
テレビとネットが手に手をとってエンタテイメントを楽しむ、幸福な瞬間だったと思う。
うん幸福だ、幸福だ。こういうことがこれから頻繁に起こるんだろうね。・・・とは言えないかもしれない。かなり特殊な出来事だったんじゃないだろうか。
まず、おじさんにとって不思議だったことがある。なぜ他ならぬラピュタでこんなに盛り上がるのか?
これはある30代前半女子に聞いたのだけど、いま30代前半から20代の若者たちにとって「ラピュタ」という映画は特別な思い入れがあるのだそうだ。
何今さら言ってんの?そんなことも知らなかったのに”バルス!”とかブログに書いてたわけ?・・・なーんてごうごうと非難の嵐が聞こえてきそうだ。いやー、おじさんホントに知らなかったよ、ラピュタがそれほど特別な映画だったなんて。
その女子が言うには、「見ろ!人がゴミのようだ」とか「目が!目がーーー!」といったムスカのセリフを、友達との会話の中で使って遊んだりしたそうだ。何かそう言う、”いじくりまわす”対象としてラピュタが機能していたらしい。(ああ、また”らしい”とか書くと、んなことも知らんのかボケ!とかなじられそうだなあ)
でもこの話は、ぼくと同世代、つまりラピュタを大人になってから見た人には、ええー?!そうなの?と言いたくなる話だと思う。だって、なんでラピュタなの?
だって宮崎アニメの代表作といえば『風の谷のナウシカ』じゃないの?ナウシカだって王蟲とか巨神兵とか、いじりがいありそうな題材いっぱいあるし。
それに、ナウシカ、ラピュタまで宮崎アニメは劇場でさほどヒットしなかった。『魔女の宅急便』『紅の豚』あたりからはっきりヒットメイカーになって、影響力もがぜん増したはず。それなのに、ラピュタなの?
いまひとつまだ理解しきれてはいないけど、どうやらラピュタには幸福な偶然がいくつも重なっているみたいなのだ。宮崎アニメはどれも盛んに日本テレビで何度も放送されていて、ラピュタも先日の放送で13回目だ。劇場で観れなかった人も、テレビで繰り返し観ている。
いまの若い人たちが子供の頃、つまり90年代に何度も何度も放送され、さらにVHSが根づいた頃だったのでお友達の誰かのお家に集まってはまた何度も見たのだろう。
そして、普通の生まれの少年が主人公で、彼の元に空から女の子が降ってくる。それが子供心を湧かせたのだろう。魔女でも豚でもなく、地球が滅びたあとでもなく、わりと自分たちに近しい世界で、自分たちみたいな少年少女が活躍する大活劇。それが突き刺さってきたんだろうね。
大学生の頃に劇場で観て、「ラピュタは宮崎アニメの中でも社会的メッセージは薄いが、飛行して空の上を目指す宮崎世界の・・・」なーんて蓮見重彦先生の真似して語ってたぼくの世代はダメなんだ。ラピュタにとって正統な観客じゃないんだね。
小学生たちがたまたまビルに昇ると下を見ながら「見ろ!人がゴミのようだ」とか、プールのあとに目薬を差しては「目が!目がーーー!」と叫んで友達と笑いあってる様子を想像して、ぼくは笑っちゃった。ぼくも子供だったらやりそうだなと。
そんな子供時代を過ごした人々が大人になり、ネットを操るようになったら、日本テレビでのラピュタの放送のたびにみんなでネット上で盛り上がるのも無理はないってもんだ。つまり、こないだの”バルス祭り”は、ソーシャルメディアのユーザー世代ど真ん中の若者たち=ラピュタ大好き世代だったからこそ起こりえた、まれに見る幸福な現象だったってわけだ。
ということはね・・・ラピュタでバルス祭りやるのは楽しいし幸福でいいんだけど、だからって今後のソーシャルとテレビの関係は万万歳で、同じようなことがどんどん起こるかって言うと、そんな簡単じゃないぜ、ってことなんだ。あそこまでの盛り上がりをもたらす題材って、ちょっとやそっとじゃないのかもしれない。
それからね、あの盛り上がりって、もう何度も見てる人同士だから起こるわけでね。コンテンツの二次使用どころか三次四次使用だからこそ起こりえた。もっと言うと、何度も視聴できる、クオリティも高いし多くの人に愛されてきたコンテンツだから。そんなの、宮崎アニメ以外でありうるだろうか?あとはスターウォーズぐらいかな?
ここのところは、もう少し考えておきたいので、間を置かずにまた続き書くからね、チェックしとこうね・・・
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